目次へ戻る 第2章の先頭へ戻る 前ページへ戻る 次ページへ進む 第4章へ進む
24

いかにも仏教らしく、中国らしくであろうか、漢字の掛け軸がやたら目につく。ガイドが録音テープに説明させ、私達はうす暗い部屋の中で腰かけていた。ちょうどその部屋の表通りには観光客相手のみやげもの屋があった。日本の観光地のそれとまったく同じで、バッヂ、メダル、絵葉書はもちろんのこと、ほかに日本製の線香がならんでいたのにはびっくりした。
  私達のバスはシティーホール前で待っている。そこまで抜けるのに10分とはかからなかった。が、細い歩道で16、7歳の若い男の子が2人、首飾りを手にいっぱい持ち、自らの首に2、3本かけてどなっている。私達のバスの一行が彼らの前を通り抜ける間中、絶叫しているのである。"Two dollars only!"とリズムをつけて何回でも繰り返してる。どこかの店の出張販売であろう。私の知っている限り、買っている人は見かけなかった。
  バスに戻ると赤ん坊は眠っていた。風体のよいオバサンと「よかったネ」とお互いの目で合図した。バスの中にホッとした安堵感が訪れた。バスはウォール街の中心を通り、マンハッタン島の南端、バッテリー公園で休憩することになった。
  バッテリー公園では、かつてヨーロッパからの移民の入国手続が行われていた。正確には1892年までで、この公園の中のキャッスルガーデンで行われていた。ここは昔の要塞で、その後、劇場や遊技場に変わったところである。新大陸に渡ってきた移民は、19世紀に入ると以前のオランダ人、フランス人に代わって、その数がうなぎ昇りに増え、とくに1840年以後の移民の約半分はアイルランドからの移民で、わずかの差でドイツ人がこれに続いたといわれる。1882年には78万9千人と最高に達し、「処理」が終わらないうちに姿をくらましてしまおうとする連中が増えてきたため、上ニューヨーク湾のエリス島に手続き基地が移されてしまった。やがて各国語で「涙の島」と呼ばれるようになったという。

バッテリー公園にて大西洋の潮風を仰ぐ・・・一瀬氏と

アクセントに欠ける

  夕方のバッテリー公園はすがすがしかった。海の香りを風が運んできてくれる。遠くリバティー島に立つ修復中の自由の女神像が見える。1886年に独立百周年を記念してフランスから贈られたものである。そのころのフランスは、相当な財力を誇っていたんだと敬服してしまう。欄干にもたれ潮風を浴びていると『墓場の街マンハッタン』という気がしない。アベックも気分が和らぐのか集まってきていた。
  バスの旅も帰路に入った。イーストリバー沿いのフランクリン・ルーズベルト・ドライブを走っていく。対岸はブルックリン区で、工業と港湾地帯である。
  19世紀の架橋工学の結晶といわれるブルックリン・ブリッジには、何台となく車が往来している。世界最大の吊橋の一つといわれるだけあって、大きく幅も広い。だが、日本の橋梁の鉄骨の太さと比べると、お粗末で重量感があまりない。国土が広いから、そう感ずるのだろうか。