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AMRI社のバタフライバルブ

  ここヒューストンは、アラモの戦いのあった1836年にテキサスがメキシコから独立して共和国を建てた時、テキサス軍の司令官サム・ヒューストン将軍に因んで命名されたといわれる。 今世紀に入って石油が発見されると飛躍的に発展し、石油関連工業では世界で有数の地位を占めている。「こちらヒューストン」と人類初の月着陸に成功したアポロ11号のテレビ中継で一躍有名になったところである。NASA(米航空宇宙局)は壮大で世界の宇宙時代をリードしているが、歴史の町、石油の町、そして宇宙の町がうまくミックスした住みやすいところだそうだ。


灰皿のない応接室

  アンドリュース氏に別れを告げ、フィリップ氏にKTMまで送っていただいた。KTMのあるところは比較的新しい金物団地で、まだ所どころ空ブロックが見られた。角ゴシックの3文字でKTMと大きく書かれてある建物には、なぜか親しみを覚えた。
  KTM(USA)は日本のKTM(北村バルブ製造)とは別会社(KTM INDUSTRIES,INC.)で、社長は韓国生まれのキム氏という方であった。日本語は独学で勉強されたといわれるが、実に流暢な日本語をしゃべられた。

TRW MISSIONでも同じであったが、紙コップに入れたコーヒー、紅茶が出された。洗う手間を考えてのことだろうか。また、気がついたのは私だけであったろうが、応接室などの商談をする机の上には、"灰皿がない"のである。
  キム氏も喫われない。タバコを喫うことが、ここアメリカにおいては何か悪いことをしている後めたさがあるような威圧感があった。そして、これをチャンスにタバコをやめることに挑戦してみようと、逆に利用してやれと思うようになってきたから不思議である。
  キム氏はコロンビア大学卒業後、そのままアメリカにとどまり、アメリカにおけるバルブの老舗クレイン社などを経てKTM(USA)をKTM(日本)と50%ずつ出資して築いたといわれる。KTM(USA)の扱いはボールバルブのみで、倉庫にはぎっしりとボールバルブが積まれていた。あるときには、KTM(USA)とKTM(日本)とが海外市場で競争する場合もあるとキム氏は嘆かれる。
  キム氏の車で食事に行くことになった。私達4人の献立はキム氏におまかせした。連れて行ってもらったところは「富士」という日本レストランであった。日本のお正月を思わせるような筝曲がバックに流れている。「いらっしゃいませ」と和服を着た女性達が、まるで日本の料亭のように迎えてくれた。本当にアメリカに来ているのかなと錯覚するほどである。メニューを見ると、日本語文字が目に飛び込んできた。「湯どうふ 6.00」とある。600円と思ってしまうが、実は6ドルである。高いが、アメリカの物価を考えると1ドルは100円の感覚だなと思った。私のディナーは湯どうふと秋刀魚の塩焼であった。久しぶりの日本食は、実に自然に私達の胃袋の中におさまったのだった。